11の時から音楽一筋で、プレイヤーになることしか考えてなかった。
初めはピアノ、そしてギター、さらにはキーボード。。。
どれもこれもぱっとしなくて、
気がついたらボーカルでばかり、バンドに誘われるようになっていた。
他大学の学祭を渡り歩き、誘われるまま、歌い続け、
やがて、私が音楽で生きていくには、歌しかないと確信した。
そこからは、いろいろなところで書いてきたとおり。
ダメだ、ダメだと言われながら、偶然が重なってプロになり、
サポートの仕事ではバカだ、ブスだと言われて、泣きながら全国ツアーを周り、
やがて呼ばれるようになったスタジオの仕事では、
譜面が弱くて、先輩たちに徹底的に叩かれた。
それでも、私は一度もぶれなかった。
音楽に取り憑かれ、音楽なしには生きられないと心の底から感じていた。
そうやって、食い下がって、「できることは何でもやってやる」と、
死にものぐるいで、できの悪い自分自身と戦ううちに、
気がついたら、どんどん仕事に呼ばれるようになり、
いろんな現場で人に誉めてもらえるようになっていた。
「好きなことを仕事にできていいわねぇ」とよく言われた。
もちろん、そんな自分のラッキーさを否定するつもりはない。
けど、音楽が大好き!っていうのと、やっぱりちょっと違ったと思う。
それがなければ生きられない。
ただただ、そのことだけに身も心も奪われて、人生のすべてを捧げている。
なんだかいつも崖っぷち。そんな気分だった。
2年間の海外生活から帰って来た頃から、
年齢もあってか、次々と音楽学校から講師のお話をいただくようになった。
もちろん、人に教えることなんて、それまで、ただの一度も考えたことはない。
歌の先生なんて、キャリアに挫折した人間や、
仕事に困った人間がやるものだと、正直、生意気にもずっと思っていた。
当時、自分のキャリアはまだこれからだと思っていたし、
まして、スタジオの仕事が次々と入って来ていて、仕事には困っていなかった。
個人レッスンレベルは、頼まれて2~3人見たことはあったけど、
「学校の先生」なんて冗談じゃない、そんな思いがあった。
あの手この手で4~5校くらい断っただろうか。
ついに、何を言っても、断りきれない仕事に出会ってしまい、
「不定期に、できるときだけレッスンする」という条件で、
初めて「講師」となったのが、ヤマハ音楽院。
1999年のことだった。
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たぶん、続く。