「いかがわしい」

やたらいい子だったり、お上品にとりすましたり、
優秀なビジネスマン風な人を見ると、
「いかがわしい」ということばが頭をよぎる。

これはもう、本能的な反応で、
けして、その本人に、なにかされたというわけではないし、
その人が、私ごときにしっぽを捕まれるようなことをしでかしたわけでも
ないのだけれど、なんか「嫌だわ〜」「いかがわしいわ〜」
と、頭の中で警報が鳴ってしまう。

不思議なのは、「いかがわしい」ということばを、
ついさっき辞書を引くまで、
単に、「下品」とか「風紀上好ましくない」的な意味に解釈していたことだ。

そういう意味なら、しっくりくることばではない。

ところが、辞書によれば、
「本当かどうか疑わしい。
物事の内容、人の正体などが、あやしげだ。信用できない。」
という意味もしっかりある。

おそらく、かつて何かの本を読んで感覚的に刷り込まれたことばなのだろう。
無意識に、的確なことばを記憶から取り出していたことになる。

人は自分を偽れないようにできている。
『いい子だ』と言われているのに、どうも「いかがわしい」と感じる子には、
やっぱり隠された部分がある。裏がある。
そして、実は、その人に接している人のほとんどが、
本能的にそれに気づいているものだ。

お上品に取り繕っても、本性はけして消えないし、
カッコつけても、人間的な内容が伴っていなければ、
軽薄さはその言動のはしばしに透けて見える。

人には誰しも、「こうありたい」という自分がある。

「こう見られたい」も、もちろんある。

でも、自分を変えたいなら、まず本当の自分と向き合って、
時間をかけてじっくり、本質から変えて行くしかない。

外見ばかり取り繕って、周囲に対する印象ばかりを変えようとすれば、
人をイラッとさせる、軽薄で「いかがわしい」存在になる。

表情に、声に、そして行動に、透けて見える「いかがわしさ」を、
私は身につけていないか?
今日の私には、そんな「いかがわしさ」はなかったか?
そんなことをときどき考えて、自分自身を棚卸しする。

そして、いつもいつも、「シロ」とは限らない自分を、
時々、妙に嫌悪するのです。

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