ろくでもない学生だったあたしが立派な先生になれるわけはない

 

「あたしが学生のときって、どんなだったかなぁ。」

音楽を学ぶ学生たちと接する中で、
迷ったり、凹んだり、ちょっとイラッとしたときに、必ず自問することばである。

あたしはろくな学生じゃなかった。

そもそも、「先生」なんてものは、
その道のプロになれないからなるものだと思っていた。

学者や研究者として生活が成り立っていたら、
人にものを教えたいなんて、思うわけない。
そんな風に勝手に決めつけていた。

生意気である。

先生たちには反抗的かつ批判的で、常に、不満を持っていた。
学校の授業がつまらなくてしかたなかった。

遅刻はする、居眠りはする、
授業をきかずに日記や歌詞や譜面を書いている、
ごく一部の、好きな先生の授業しか熱心に聞かない、
宿題はやらない、予習復習はしない・・・
それでも、そこそこの成績を取って、同級生からも一目置かれている。。。

こんなに嫌な学生はいなかっただろうと思う。

だから、学生が生意気なのは歓迎である。
その理由がわかるのである。

生意気であったり、先生に食い下がったりするということは、
つまり、人生に熱意があるということだからだ。

熱意があるから不満がある。
不満があれば、それをどう変えて行きたいかというエネルギーにつながる。

実はその不満は自分に対するものなのだけど、ね。

一番いやなのは、死んだ魚のような目で授業に参加している学生である。

「はい。ちゃんと授業聞いてます。」という顔をしている。
心の中が表情に出ない。
何か訊ねると、愛想笑いを浮かべる。
質問すればそつなく答える。
がんばっていますというパフォーマンスをする。

あたしはウソは嫌いである。気持ちが悪いのである。

つまらないなら、つまらない顔をすればよろしい。
授業なんか、サボればよろしい。
学校なんか、やめればよろしい。

自分にウソをつくことを覚えると、
一生、そんなウソの中で生きていかなくちゃいけなくなる。
そんな不幸なオトナになった彼女たちが容易に想像できて、
ガックリきてしまうのだ。

その次にいやなのが、なんでもかんでもインスタントに正解を求めてくる学生だ。

「もっと練習しなさい。」といえば、「やってるんですけどね」という。
「じゃあ練習のクオリティをあげなさい」といえば、
「どんな練習したらいいんですか?」という。
「それこそが毎回の授業でやっていることなんだから、わかるでしょ?」
である。

ここまで言っても、まだわからないヤツが時々いて、
以前など、
「じゃあ、今度、ボクが自分で練習しているところを録音してくるんで、
聞いてもらって、何が悪いのか教えてもらえますか?」といわれたときには、
さすがにぶち切れた。

メールで、なんでもお手軽に聞いて来る学生もいる。
メールなら、まだマシで、
中にはLINEで絵文字付で繰り返し質問してくる学生もいる。
どれだけ返信してもきりがない。

「頭は帽子かぶるためについてるんじゃないのよ!」
そんな学生にぶち切れたときにシャウトすることばである。

自分の正解は自分にしか出せない。
人がくれる答えは、所詮、その人の正解だ。
お手軽に答えを得て、上っ面だけわかった気になって、
机上の空論で人生をジャッジする。こんなに危険なことはない。

自分の頭で、カラダで、正解を選び取っていく
決意と勇気が必要なのだ。

結局あたしは、ろくな先生じゃないのかもしれない。
ろくな学生じゃなかった人間が、優秀な先生になることは、たぶん無理だ。

寛容になることも、忍耐強くなることも、優しくなることも、やっぱり無理だ。
ROCKなあたしにとって、きっとそれはウソなんだ。

あたしにできるベストは、自分はろくでもない先生だという自覚を忘れないこと。

ろくでもない先生だからこそ、
日々、自分自身に不満を持ち続け、
学生や学ぶ場のあり方にも不満を持ち続け、抵抗し、反抗し、
もっともっとと、変化を模索できるのかもしれない。

それがあたしにとっての、きっと、熱意のあり方だ。

Keep on Rockin’!

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